学生時代からクラシック音楽とくにピアノ曲が好きで、将来は音楽家に役立つ医者になりたいと思っていました。当時声楽家を治療する耳鼻科医がおられたのですが、ピアニストにかかわる仕事がしたかったのです。すると当時ピアノをご指導いただいていた国立音大教授の児玉邦夫先生から「腱鞘炎に悩むピアニストが多くて困っている」という話を伺い、当時急速に発展していた手外科の医者になろうかと考えました。
そこで、手外科の先生やリハビリテーション医学の権威の方などに音楽家の手の治療について聞いてみたのですが、否定的な意見しか返ってきませんでした。当時の整形外科は、手足の機能を損なった人に対して、仕事や食事などの日常生活が送れるようにする治療が中心でした。音楽はあくまで趣味の分野であり、日常生活に困っている人を差し置いて、趣味の分野の治療をすることに意味があるのかという見方をされていたのです。
また、音楽の分野に特化した治療という看板を掲げたとして、どの程度の需要があるのかも不透明でした。山形大学医学部の同級生も大半が否定的で、「音楽が好きなら趣味でやればいいことで、職業として関わるべきではない。必ず道を誤る。」とまで言われました。本当に四面楚歌の状態でした。
大学卒業後は横浜市立大学の整形外科に入局し、手外科や膝関節外科スポーツ医学、リハビリテーションについて学びました。研修医となって2年目くらいのことだった思いますが、児玉先生の紹介で音楽家の患者が来るようになったのです。プロの音楽家にとっては、演奏に支障が出れば生活が成り立たないわけですから、症状の訴えもかなり深刻なものでした。
そういった状況を目の当たりにして、音楽家外来には需要があるという手応えを感じました。そこで1984年、横浜市立大学医学部附属病院の手外科の外来担当になったことをきっかけに、午後の診療時間の一部を使って音楽家の診療を始めました。すると相当数の患者さんが来たのです。中には関西や九州から足を運んでくださる患者さんもいました。
それが始まりと言っていいでしょう。もちろんその頃は、後に音楽家専門外来を開設するなんて想像もしていませんでした。
酒井直隆
医療法人社団アーツメディック
さかい整形外科
院長
山形大学医学部卒業。医学博士を横浜市立大学より、工学博士を東京大学より授与。
横浜市立大学附属病院助手、横須賀共済病院医長を経て、米国メイヨー・クリニックおよびハーバード大学医学部に留学。
帰国後、横浜市立大学医学部講師、横浜市立市民病院診療部長、横浜市立大学医学部客員教授、宇都宮大学工学研究科教授を歴任。
現在の仕事についた経緯
仕事へのこだわり
音楽家の外来(https://musician.arts-med.com/)では音楽家の立場になって「練習を休ませずに治療する」ことです。
音楽家が不調を感じてもなかなか病院を訪れないのは、診察を受ければ「休め」と言われるからだそうです。演奏は非常にデリケートなものですから、その感覚を維持するためにも毎日の練習が欠かせません。練習を休めば下手になり、最悪の場合は仕事を失ってしまいます。ですからプロの音楽家は、痛かろうが何だろうが無理をして演奏してしまうのです。
実際の治療はそれぞれの患者さんに合わせて行うので、「こんな治療をしています」と一概には言えません。ただ、いかに練習を休まないで治すかということに主眼を置いているからこそ、患者さんが来てくださるのだと思っています。
この考えは現在のクリニックで同時におこなっているダンス外来(https://dancemed.arts-med.com/)でも同様で、ダンサーの方の身になって「練習を休ますにいかに治すか」という方針を貫いています。理学療法士によるリハビリテーションも、治療に大きな効果を上げています。
また、局所性ジストニアなどでは演奏中にしか症状が出ませんので、診療現場で演奏してもらう必要があります。東京女子医大附属青山病院に日本最初の音楽家専門外来を開いたときは、個室の診察室を使わせていただき、多少音が漏れても他の先生方が「いいBGMになる」と理解いただけたので演奏動作を診ることができました。しかしやはり一般の病院で思いきり演奏してもらうことは不可能ですから、グランドピアノを置いたクリニックを自分で作って、思いどおりのリハビリも行えるようにしました。
そう思えるようになった
きっかけ
最近は「ピアニストの手を治せるなら」として美容師や職人、eスポーツ選手など来院される方の職種が広がってきています。とくにeスポーツ選手の症状はコンピューター障害(https://pc-pain.arts-med.com/)の代表格で、工学研究科教授を務めていた時代のリサーチ経験が大いに役立っています。何事も無駄な経験はないのだと思いました。
一方音楽家のほうは大学病院時代に手を中心に診ていたものが、腰痛や膝痛、骨粗鬆症から腫瘍まで、あらゆる整形外科疾患を対象とするようになりました。
それとともに漢方医学も取り入れ始めています。とくに「明日本番があるので今、治してほしい」という要望に対して、漢方のツボにトリガーポイント注射を行う方法を「漢方トリガーポイント注射」(https://chinesetrigger.arts-med.com)として行い、喜ばれています。私は横浜市大時代に、上海医大の留学生を担当した経験があり、彼らから本場中国での漢方医学のあり方を教えてもらいました。
また麻酔科医時代の指導医が上海医大に留学していたことから、鍼麻酔を学び外来で応用したこともあります。さらに米国留学時代に、西洋の麻酔医療に鍼灸を取り入れる考え方があることを知り、帰国後スポーツ選手に応用していました。これが今になって、慢性腰痛や肩こりの方々に喜ばれているので、これまでの思わぬ経験が役立つのだと思いました。
今後の目標
再生医療によって、手術するしかないと言われた末期の股関節症やひざ関節症、治療法がないと思われていたへバーデン結節や母指CM関節症、ブシャール結節などの治療を行えるようになりました。慢性のテニス肘や肩腱板損傷など、関節症以外の疾患も対象になります。
再生医療はまだ確定した治療法として認知されていませんが、少なくとも当院でおこなった範囲では、良好な成績をおさめています。保険適応がなく自費診療になりますが、最近は海外在住の日本人の方がPRP治療のために来院されるケースもあります。
「手術なしで休まずに治療する」ことを当初、音楽家やダンサーの治療で追及してきましたが、多忙なコンピューター社会となった現代では、それが求められているのだと日々、実感します。
音楽家医学、ダンス医学というニッチな分野で培った治療ノウハウと、漢方や再生医療の最新の成果を、今後あらゆる整形外科疾患に応用していきたい、と考えています。
※ 本サイトに掲載している情報は取材時点のものです。