サラリーマンの父と専業主婦の母のもとで育った私は、医師の道とは無縁の環境で育ちました。しかし幼い頃、掛かりつけの開業医が嫌な顔一つせず治療をしてくれる姿を見ているうち、医師という職業に憧れを抱くようになったのです。
とはいえ鳥取大学の医学部に進学してからは、人一倍勉強したわけでもなく、部活動やプライベートの時間に重きを割いているような、どこにでもいる平凡な学生生活を送っていました。しかし大学4年生の時にたまたまアメリカ海軍の病院へ見学に行く機会があり、救急医のかっこよさに惹かれるようになっていったのです。卒業してすぐに外科の門を叩き、救急医への道を志すようになりました。
医師になって3年目には自ら志願し、日本の救急医療の中心的な役割を果たしていた千里救命救急センターに移っています。鳥取大学に救急を学ぶ所がなかったためでした。
それから間もなくして大阪・池田小学校の殺傷事件が起こり、2005年にはJR福知山線の電車脱線事故が発生。さまざまな悲惨な現場の医療指揮をとっていく中で、救急医としての礎を築いていったのです。