私が高校生の頃、親族が亡くなった時に「どうして自分は何もできないのだろう…」と歯がゆい思いをしました。医療に漠然とした興味を持っていたこともあり、これを機に医学部を目指す決意をしました。「なんでも対応できる医師になりたい」という思いから、救急科の道を選択しました。
開業医に至った経緯としては、30代後半に差し掛かり、自分が今後どんな人生を送りたいか考えた結果、開業することが、自分の手の届く範囲の患者さん、家族、知人、同僚にとってより長く貢献できる形だと判断して決意しました。
田嶋淳哉
できじまクリニック
院長
新潟高等学校、新潟大学医学部卒業。新潟県立新発田病院で初期研修、新潟市民病院救急科で後期研修後、横浜市立みなと赤十字病院 救急科(集中治療部)で勤務。
救急専門医・集中治療専門医を取得後、新潟県に戻り中核・拠点病院で勤務。
令和6年11月、できじまクリニックを開院、現在に至る。
現在の仕事についた経緯
仕事へのこだわり
「なんでも対応できる医師になりたい」
ここが基本なので、初期研修において多くの患者さんに対応できる病院を選択しました。そのため、研修医でも当直では子どもから高齢の方までの初期対応を経験できました。
救急医としての勤務医時代も変わらず忙しい毎日でしたが、初期研修医の時とは違って、主治医として管理をしたり、リーダーとしてドクターカーで現場活動をしたり、自分が責任を負うことが多くなりました。その分、やりがいもあり、厳しいことも経験しましたが、「時間との勝負」や「決断すること」の重要性を学ばせていただきました。
知識も見聞も広めるために、先輩医師の勧めもあって県外での研修をしようと思い、集中治療医としての勤務を横浜市内の病院で送りました。ここでは、より複雑な病態の患者さんも増えましたが、「患者さんを全身で捉えること」や「根拠を持って対応すること」を学ばせていただきました。人口の違いもあって忙しさは更に増し、同僚の先生方の意識の高さ、知識の幅広さに驚かされるばかりでしたが、すごく刺激になりました。
同時期に外勤として複数の中核病院勤務も経験していますが、病院に求められている機能によっても考え方やスタンスが違っていたこともあり、体制を含めて地域の課題を実感できました。
この頃からプレーヤーでありつつも、後輩の育成などのマネジメント側に入ることも増え、似たようなスタンスの医師が増えたらいいなと思い、ここまでの経験で得たものを伝えるようにしてきました。
開業後も「より幅広く、より身近に」をモットーに、幅広くどんな症状でも診療できる、身近なかかりつけ医として、地域に貢献したいと考えています。
そう思えるようになった
きっかけ
初期研修の2年目で、麻酔科の選択研修をしていた頃です。ICUに多臓器不全の患者さんが入院していました。当時の勤務先には救急科も集中治療科もなく、内科のベテラン医師が主治医になっていましたが、全身管理の相談先として麻酔科に応援要請がかかり、管理を手伝うことになりました。人工呼吸器は当然、透析もしないといけない、でも循環も悪いといった非常に厳しい状態でした。この時に「全身管理をしっかりできるようになりたい」「こういう人を助けられるようになりたい」と思い救急科に進むことにしました。
正直、当時は続けられる覚悟までしていたとは言えませんが、その後に集中治療を学ぼうと思ったのも、この時の患者さんのことが強く影響したと思います。開業医になりましたが「全身を診て幅広く対応できる医師」であることは変わらないままです。
今後の目標
もう1つは「育児等で就職や勤務に難渋・制限がある方々が不安なく働ける環境を作ること」です。救急・集中治療科は他科に比べてシフト制が多く、育短の方が勤務しやすい面もあります。
しかし、子どもの突然の体調不良で早退することもあるために常勤者への負担を感じていたり、そもそも働きたくても採用されにくかったりすることが医師以外の職種でも多くあります。このような育児世代の方々をスタッフ同士で支え合える職場でありたいと考えています。
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