Profile

鈴木佐和子

さわ助産院×産後ケアハウス「虹色びれっじ」
院長/助産師

関西外国語大学HawaiiCollege留学中、ホストマザーの影響もあり看護師の道へ。
1996年豊橋市立看護専門学校入学。卒業後は救命救急科に勤務。2001年、結婚のため退職。それを機に名古屋市立中央看護専門学校助産学校助産学科に入学。産科小児科病棟勤務を経て3人の子どもたちを出産。出産後は自分のライフスタイルに合わせて地域の助産活動に従事。
2013年、出張専門助産院「さわ助産院」を開業。
2017年、施設助産院さわ助産院×産後ケアハウス「虹色びれっじ」を開設。同年ソーシャルビジネスプランコンテストにて愛知県知事賞を受賞。

現在の仕事についた経緯

高校生の頃から看護師になりたいという漠然とした夢はありましたが、数学が大変苦手で一旦は看護の道をあきらめ語学の道に進みました。留学先のホストマザーが医師だったことをきっかけに、あらためて医療、看護の道を目指しました。
看護学校を卒業後は、救命救急科の看護師として働き、症状の重さや緊急性の異なる患者さまの看護にあたる中で多くを学び、命の尊さ、儚さを痛感しました。救命救急の現場では素早い対応が必要になるため、判断する力やスピーディーに動く力、チームワークの大切さを学びました。
結婚を機に、女性や小児に寄り添った看護をしたいと強く思うようになり助産師の道を志しました。
産科小児科の現場では現代の様々な問題に触れ、女性にとって大きなライフイベントでもある「妊娠・出産・子育て」の時期は、たくさんの喜びとともに、多くの不安や孤独感を抱きやすいタイミングであることも知りました。
産科小児科での経験を経て、また自分自身の3人の子どもたちの妊娠・出産・子育てを通して、ひとりの女性として、同じ母親として、地域の助産師として、医療の現場ではなく、生活により近い部分で助産活動をしたいと思うようになりました。

仕事へのこだわり

「産後はとことん養生してほしい」
「お母さんにはほっとできる場所と、温かいご飯をお届けしたい」
そんな気持ちから、2017年に産後ケアに特化した施設助産院を開設いたしました。まるで実家にいるかのような安心感に包まれて、ゆっくりママになれるよう、そばにいて不安な時に「大丈夫だよ」とそっとママに寄り添える場所であるよう、助産師・看護師・サロンスタッフ・保育スタッフ・産後ケアサポーターが連携して施設運営をしています。
当院では産前産後のケア、授乳相談、赤ちゃんのお世話のサポートはもちろんですが、ほっとできる居場所づくりを一番大切にしています。
子育てはひとりで頑張らなくていい、等身大の自分のままでほどほどでいい、みんなで子育てをしよう、そんなあたたかい気持ちが循環して地域でバトンされていくといいなと思いながら活動をしています。

施設の名前は、さわ助産院×産後ケアハウス「虹色びれっじ」といいます。助産院としての機能だけではなく、なないろの虹のように、いろいろな個性が集まって、温かい繋がりを持つ地域社会「村=village」が誕生するといいな!という願いを込めて名付けました。
ですから、私自身も「産後ケアは助産師だけで頑張らなくていい!」と思っていて、様々な業種の方や、地域でいろいろな活動をされている皆様のお力を借りながらゆっくりと歩んでいます。

院内では産後ケア(宿泊・日帰り・出張・休息)/授乳相談/育児相談などさわ助産院での相談に加え、リラクゼーション&美容のための虹色サロン「Uacoco」、6か月未満の乳児の一時預かりを専門とした虹色保育園「Lei」を専任のスタッフが集まって運営しています。
そして、当院では女性が笑顔になる取り組みであればジャンルを問わず、子育て広場、ベビーマッサージサークル、バランスボールエクササイズサークルなど、その他にもいろいろなお楽しみがあります。
ちょっと変わった助産院かもしれませんが、それが私らしい仕事へのこだわりです。「女性が楽しい、嬉しい、わくわく、安心すること」そんな色いろを集めています。ママが笑顔だと、きっと家族もしあわせです。

助産師の仕事は多岐にわたり『女性の一生に寄り添う仕事』です。多くの女性やその家族が心身共に健やかにすごせるように、どのように関わらせていただけるか?病院で働くのか?地域で働くのか?自分らしい働き方を自分自身で考え、選択していけるという部分も「助産師」という仕事は大変魅力的な仕事だと思います。
子どもの頃過ごした時間、救命救急科や産科小児科病棟、地域の助産活動で学んだこと、そして3児の母としての経験が今、ゆっくりと活かされていると思います。

そう思えるようになった
きっかけ

「ママのほっとできる場所を」そう強く思うのはわたしの幼少期の想いから来るのかもしれません。
私の父と母は九州出身です。母は20歳のころ結婚のために大阪に出てきて3人の子どもを授かりました。頑張り屋の母でしたので、3人の子育てを全力で120%で頑張っていたと思います。2番目の兄は生まれながらに障がいを抱えていましたので、家族親戚、友人が不在な大阪での妊娠・出産・子育ては大変不安だったことと思います。
夫である私の父も高度成長期の日本、毎日仕事仕事で子育てにほぼ関わることができていなかったと思います。私の記憶の中でもほとんど一緒に食事をした記憶がありません。
母はきっと、ひとりで不安と孤独の中で慣れない大阪で子育てを頑張っていたんだと思います。料理や自然が大好きだった母はたくさんの料理や植物の名を幼いころから私に教えてくれました。
私が10歳の頃、母の様子がおかしくなりました。料理、洗濯、掃除…一切の家事をしなくなりました。今思うと鬱だったのかなと思います。
そんな母のもとで、120%出来のいいお母さんじゃなくていい、60%でほどほどでいいから笑顔で側にいてほしい、そう思っていたように思います。
料理、洗濯、掃除を10歳の頃から家族分やってきたおかげで、私の自立はとても早かったです。そんな家族環境もあって、高校を出てすぐに家出をするように海外留学を選択しそのまま実家には戻っていません。
私自身、良好な母子関係ではなかったこともあって私の3人の子どもたちの出産は愛知で迎え、里帰りをすることはありませんでした。私の母の気持ちに少し想いを寄せられたのは私が第3子を妊娠・出産する頃でした。私も母と同じように気づいたら頑張りすぎていました。
「あ~そうか、母も若かった、母も寂しかった、母も大変だった、人一倍頑張りすぎたんだな」と、初めて気づきました。 だから、「産後はとことん養生してほしい、ひとりで子育てを頑張らないでいい、ほどほどでいい」そう強く感じるのだと思います。
そして気づいたら、子育て期を応援したい、いえ…応援し合いたい!と思っている自分がいました。
看護師をあきらめていた私が、ご縁があって留学先で看護の道に目覚め看護師になり、命の尊さ、儚さを学び、子育てのスタートに関わりたいと助産師になり、気づいたら「ゆっくり母になる」応援をしています。

今後の目標

当院はこれからも、心も身体も健やかに笑顔で美しくありたいと願う女性を応援します。「お互いさま」の気持ちを大切に、ホッとして、応援し学び合える場を目指して。
個から家族へ、さらに地域へと、愛情の循環が始まるように、これからも真心込めたケアをお届けしてまいります。
小さな助産院なので、力に限りはありますが、地域で産後ケアがもっともっと、あたりまえになるような活動をしていきたいです。
その中の一つの目標として、事業所の福利厚生として当院のケアをご利用いただく、また定期的に出張型の事業所内保健室のような取り組みを採用していただけたらいいなと思っています。
子育て中の自分の悩みや課題について専門家に相談できる場所、そしてその悩みや課題を専門家を通して、事業所と共有できるような取り組みはきっと子育て世代のパパママたちに必要な支援なのではないかと思います。
パパや家族はもちろん、職場のボスや同僚も巻き込んで、もっと子育て世代の女性たちが妊娠・出産・子育てと仕事の両立などの不安や心配がなく、心身ともに健やかに育児をスタートできるようになればいいなと思っています。
もっと当たり前に温かいさまざまな支援を受けられるようになれば、その後の家族の生活にゆとりがうまれ、子育てへの自信や、復職後のモチベーションアップ、スキルアップにもつながると考えています。
これからも「ゆっくりと母になる」そして、「お互いさま」を合言葉に、多職種のスタッフそしてご利用される皆様と一緒に、なないろの虹のように、さわ助産院×産後ケアハウス「虹色びれっじ」を彩り続けていきたいと思います。

※ 本サイトに掲載している情報は取材時点のものです。

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